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ジッチャンの名にかけて。
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1-5 「マジもんのハリケーン・ミキサー」

トルヒーリョ ( ホンジュラス)

確かにヒドイ有様だった。


橋が崩れ落ちて消滅していた。
いかにもその場しのぎで作ったであろう頼りない吊り橋を、1人ずつ、行儀よく並んで渡る。
工事現場で渋滞するときみたいに、対向が渡りきるのを待って、今度はこちら。


いま見えている本来の川幅を、もう2本ずつ両サイドに並べたくらいの幅で、岸が削れている。
巨人がシャベルでえぐり取ったような深さだ。
橋が流されたということは、この位置まで水が来たということか。


噂には聞いていたが、想像以上に被害は深刻みたいだった。
30キロはあろうかという土嚢(どのう)を肩に担いだ男たちが、
アリのように列を成して河原に下りていく。


足元に見えるのは、軍隊のキャンプだろうか。
川の両岸には、それよりもはるかに粗末なボロボロのテントが雑然と並ぶ。
被災者の仮設住宅だ。




1998年10月、50年に一度とも言われた超大型ハリケーン 「Mitch(ミッチ)」 が、
中米地域を襲った。犠牲者の数は、推定2万人にも上るという。


ホンジュラスは被災地域のど真ん中にあった。
特に北部、カリブ海沿岸は壊滅的な打撃を受けた、との話だったが、
これは 「壊滅」 そのものだ。 「的」 なんてヌルいものではなかった。



町から町へ移動するだけなのに、何回バスを降りて歩いただろう。
ハリケーンから3ヶ月が経った今も、復旧は難航しており、
住民は今日みたいなパラつく程度の小雨にも怯えて暮らしていた。


さすがの珍しモノ好きのわしも、コレをカメラに収めようという気分にはなれなかった。
滅多にお目にかかれない光景、と微妙に喜んでいる事自体が、不謹慎極まりない。


「こんな時、自分なら何ができるのだろう・・・」


チラッとだが、ごく自然に、そんな言葉が頭をかすめた。


心のないわしが、人の役に立ちたいと思った。
多分これも、50年に一度くらいの珍事だった。



本当は、カリブ海へは遊びに行くところだった。
バイーア諸島のウティラ島というところでは、ダイビングのライセンスが格安で取れる。
世界一か二かと噂されるその安さに目がくらんで、行こうと決めていた。
正直、現場がどうであろうと関係ない。旅行ができるかどうか、それだけが心配だった。


そんな人でなし系旅行者の期待を真っ向から裏切って、
初めて対面するカリブ海は、カフェ・オ・レみたいな茶色に濁っていた。


2月の中米は乾期も半ば。
数ヶ月は雨が全く降らないハズなのだが、冬の日本海みたいに荒れ狂っている。
ハリケーンの事といい、地球全体が何かおかしくなっているのかもしれない。
1999年。
世界の滅亡を予言された年の初頭に、その兆候がリアルに表面化しているように思えた。




ウティラ島はもちろん島だ。こう海が荒れては、行く船も出ない。
首尾よく辿り着いても、ダイビングの講習なんかやっていないだろう。


苦労してカリブ海、ラ・セイバまでやってきたが、いきなりやることがなくなってしまった。
やはりヨコシマな心がマズかったのかもしれない。


雨から逃げる目的でトルヒーリョという町に行ってみたのだが、
「だったら人の役に立つことをしなさい」 と、見えない何かが呼んだのだろうか。


ツチヤさんとユーコさんの二人に出会ったのは、バスを降りてすぐだった。



大抵の発展途上国には、青年海外協力隊、略称JICA(ジャイカ)がいる。


それ以外にもODAだかNGOだか何だか、
この頃のホンジュラスには、世界各国から、実に色々な団体が来ていた。


プロレス団体みたいにいっぱいありすぎてよーわからんが、
それほど援助する相手が多いってことだろう。


だが、それら団体が助けられるのは比較的大きな町、村のみで、
人口数十人とかいった小さな村までは、援助が届かない、というのが現状だそうだ。



ツチヤさんとユーコさん。
彼らは、そういった小さな集落を専門に援助する人々らしい。
中米旅行の経験者たちがハリケーンの話を知って、仲間うちで団体を立ち上げたという。


とくにユーコさんの方は、ハリケーンの直撃を、このトルヒーリョで受けた。
加えて、阪神大震災に居合わせた経験もある。筋金入りの被災者だ。


そんな縁もあって、心の底からホンジュラスを救いたい、力になりたいと思っているのだろう。
この人たちは自腹で来て、自分で集めた募金を使って活動する。
もちろん大きい団体の人も、現地の助けになりたいという美しい気持ちで来ているとは思うが、
彼らは一段階上というか、格別に崇高な感じがした。



「今度ぼくらが援助する村に行くんだけど、時間があるなら一緒に行かないか。」



そんな聖人の集まりに吸血鬼のわしが混ざるのは気がひけたが、
なにぶん弱小団体で、行動する人数が増えるだけでもありがたいという。


わしの方も、本気で取り組めるほどの善人ではないが、手伝いくらいなら面白そうだ。
こちらの方こそありがたいと、同行させてもらうことになった。



援助団体のほとんどは国とかユネスコとか、でっかい後ろ盾があるでっかい組織だ。
現場には専用の車でサッと駆けつけ、必要な仕事をこなす。


片や我らが弱小団体は、自力の移動だ。
手近な村までバスで行き、トラックをヒッチし、牛車の荷台に乗せてもらったあと、
やはり橋のない川を、小船に乗って渡る。


この川は去年は存在しなかったらしい。
渡るとそこからまたヒッチして、あとは徒歩。
未だに水気が引かない田んぼのようなぬかるみの中を、転ばないように慎重に進む。
深く沈みすぎて、脚を抜くことがなかなかできない。
泥がクツにまとわりついて、足が16文キックみたいな大きさになる。


このあたりを含め、ホンジュラス全土にバナナのプランテーションがあったそうだが、
ハリケーンでほとんど全滅したらしい。
「Chiquita(チキータ)」 と書かれた青いシールのバナナ。給食で食った覚えがある。
居なかったから知らないけど、この頃は日本でもほとんど見かけなかったハズだ。


嵐に持ちこたえて残ったヤシの木が、2〜3メートルの高さで茶色に変色している。
ハリケーンのピーク時は海が荒れ、川の水が流れ込めずにあふれた。
信じ難いことだが、河口付近のこの辺りは、あの高さまで水浸しだったのだ。
そりゃあ、普通の民家などひとたまりもなかっただろう。



村に着くと、倒壊した家が、まだ片付けられずに放置してあった。
屋根の部分だけ残って、その中に住んでいる人もいるらしい。


ハリケーン前のカタチをまともに残しているのは、
学校があった場所の、コンクリの基礎の部分だけだ。
ラ・セイバやトルヒーリョのように大きめの町は割と大丈夫そうだったが、
それに比べてイナカはものすごい壊滅ぶりだ。




この村に今一番必要なものは何なのか。
資金も限られているので、村人のリクエストも参考に、一つ一つ、慎重に調査し、吟味する。
村人リストの作成などなど、地道で地味な作業が続く。


わしも3週間、スペイン語学校で勉強した身。
この頃になると、彼らの会話もある程度は理解できるようになっていた。


黙って立ち聞きしていると、
まず学校を復旧させて欲しい。ノートが欲しい。エンピツが欲しい。
水道がなくて真水がない。アレが欲しいコレが欲しいと、次第に要求はエスカレートする。


それだけ何も無いんだ、大変なんだな、と思うと同時に、
なんとなく違和感みたいなものも感じた。
こいつら3歳の子供じゃあるまいし、言えばもらえるとか、そう思ってないか?


復旧作業でも何でも、この状況では動く以外の選択肢は有り得ないのに、
さっきから見てりゃあ村人は何もしていないように見える。


援助する方もする方だ。
モノをあげれば、それが援助か?
本当にこの国の未来を考えるなら、もっと独立独歩、
自分たちでやろうという 「考え方」 を根付かせてやるべきじゃないのか・・・。


自分こそ何にもしていない、という事実には全く気づかず、
わしはエラそうにウデ組みをして、 「援助のあり方」 について考えていた。
違うんだよなー。何か。
そして何だこのいいニオイ・・・。んん?


いつの間にか、村人たちはトリ肉を炭火で焼き始めていた。
黄金色の脂が滴り落ちて、ジュッという気色いい音を立てている。


なんだ、食い物はあるんだな。しかも肉か・・・と思っていると、
ケンタッキーの1ピースくらいのカケラを串に刺して、
中学生くらいの男の子が、わしらの前に突き出してきた。
うそ? わしらに?


男子中学生は、見た事も無いようなフルスロットルの笑顔でわしらを見つめている。






・・・すまん。今のナシ。



心が洗われるようだった。


助けを求めている人は何が無いって、食い物がいちばん無いはずだ。
ニワトリは中米ではポピュラーな食材とはいえ、この状況で他人に出すとは・・・
しかも、自分らを助けに来たなどとぬかす、ヘラヘラ恵まれた相手に、だ。


できるか?
自分に同じことができるか??
将来プータローで(今もだけど)、カネがなくて、借金も返せなくて、
ヤクザに内臓売れとか言われてる状況で、ビル・ゲイツにオゴるようなものだ。


絶対、できない。
何て美しい心の持ち主なのだろう。
この人たちは何も持っていないが、人間として大切なものは、世界の誰よりも持っている。
漢(おとこ)を見た。こんな地の果てに確かに、漢(おとこ)は居たのだ。


北斗の拳占いでジャギと出た自分の 「狭さ」 が恥ずかしくなった。
こんないい奴らをヒドイ目に遭わせるなんて、神様は何考えてるんじゃ。


ゴトッという音がして振り返ると、これまた貴重なヤシの身を落としているところだった。
わしら一人一人に1個ずつ、穴を開けてよこしてくれる。親切の波状攻撃。
どうしてそこまで優しくできるのだろう。


これというのもツチヤさんやユーコさんが、
何度も足を運んで、信頼を勝ち得たおかげだろう。
村人にとっても他に救いの手はない。
神への捧げ物みたいな破格の待遇もなるほど、
頷けるのだ。


どこをどう見たらわしが医者に見えるのか、
「歯を治してくれ」 とか言ってくる村人もいるが、
わけのわからん東洋人にもすがりたい気持ちは、よくわかる。


「じゃあ、今度来た時な。」
と無責任な事を言おうものなら、丁重に礼を言われてしまう。
ここに居るだけで犯罪的な気分なのに、ウソでますます自分が汚れていく。


「ふん。 何もキサマらのために来たのではない。 ヒマだっただけだ。」


照れ隠しでもなんでもなく、本当にヒマだったのだから最悪だ。
しかもわし、何もしていないし。


こんなんでいいのだろうか。
役に・・・立ったのか?
強いて挙げるとすれば、ウソで村人を 「ホッ」 とさせたぐらいだ。


自分はいっさい手を下さずに、人に感謝されてしまった。
全くいわれの無い感謝なのに、
何だかいい事をしたような気分になって、その日はものすごくよく眠れた。



その後、JICAの方々とも知り合い、ホンジュラス初のカマボコ作りを手伝ったり、
掃除をしたりと、まあ大半は仕事のジャマをしつつ、現地の人とも交流した。
こちらも地元との信頼関係がものすごくて、お礼にと民族舞踊と地酒を振舞われたりした。

   


トルヒーリョの日々は、ヒマつぶしの寄り道にしては、あまりにも充実していた。
人助けをしに来たつもりが、いちばん助かったのは自分だった。




数日が過ぎ、ようやく空に晴れ間が戻ってくると、
わしは本来の目的を思い出し、出発することに決めた。


皆さんはあと数ヶ月、中には数年ここに残る人もいるのに、
飽きたオモチャをポイするみたいに、サッサと切り替えて次へ。
旅行者というのは気楽なものだ。


もっと残って 「いい人」 と呼ばれたい名残惜しさはあるが・・・
悲しいけどこれ、旅行なのよね。






船着場のあるラ・セイバに戻ると、海は数日前と同じ場所とは思えない美しさだった。
船も普通に出るという。ずいぶん遠回りしたのう。


さて、島に行く前に、絵ハガキでも出しておこうか・・・
ふと入った雑貨屋には、なんと 「ハリケーン・ミッチ」 とプリントされたTシャツが売られていた。
傍らには、ハリケーン・ミッチタオルもある。
店内では、ホンジュラスに来て以来やたら耳にした曲が流れる。
まさかと思ったが、 「ハリケーン・ミッチのテーマソング」 だそうだ・・・。


援助する方の真剣さ、本気度に比べて、被害者側のこのカルさ。
日本で 「阪神大震災まんじゅう」 とかでグッズ展開したら、
たちまちマスコミに叩かれて撤去だろう。


いや待て、この売上が復興の義援金に充てられるのに違いない。
と思いきや、そんな話はない、とキッパリ。
これでひと儲けして、酒でも飲もうと思っているのだろう。
ピンチもイベント。ビジネスチャンスだと思ってる現地人もいるのだ。


そういえば小さな村に食料が届かないのは、
その手前の村の住民が他の町に横流ししているせいだとも聞く。



みなさん、コイツら充分たくましいですぜ。



利用できるもんは何でも利用する姿勢。
ホンジュラス人の底知れぬ明るさ、そしてちょっとしたズルさに、
やっぱり援助なんかいらねえんじゃねえかという気がした。



大丈夫。助けなくても何とかするでしょ。
漢(おとこ)だからな・・・。



無限の奥の奥まで広がる大快晴の青空と、メロンソーダのように透き通るカリブ海。
こんなものに囲まれて育ったら、そりゃウジウジ落ち込む人間にはならんわなあ。


扇風機の 「弱」 くらいの爽やかな海風が、フェリーのデッキを通り抜ける。
わしも被災者のことはすっかり忘れて、気持ちはもうダイビング一色に切り替わっていた。


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